2011年3月5日土曜日

観察者としての立場

10年近く前、辞令を貰って岐阜に来てすぐの時だが仕事場でスタッフとの大喧嘩をした。

今でも良く覚えている。着任の日、研究分野がばらばらのスタッフの間で雑談をした中で君は何をしたいのかと聞かれ、「自分は岐阜の観察者でありたい」と話した所、その後上司となるロボット系の研究者に酷評され、猛烈なバトルとなった。ロボット系の人には「こいつは何もする気が無い」と理解されたらしく、それから数年は大きな誤解の中で、事実上の監視下に置かれ針のむしろの岐阜生活となった。

都市論やアートの領域を横断してきた自分の出自を考えると、発言自体は何も問題はないしその後十分に研究も仕事も出来たものと思っている。ただ、今となってみれば一部の人には癪に障る言葉だったのだろうと類推している。

地域に何が求められているのか、見て歩いて調べて聞いて考えるプロセスが当たり前として師匠らに叩き込まれていた身には、観察という行為が理解されないのは意外で、かつ身内から後ろから弾が飛んでくる状況には面食らった。

徐々に分かってきたことは、そういう訓練を受けた人というのは稀有なのだということであり。そのうちに役所や大学で偉い人がストーリーをつむぎ出し、それを地域に強引に当てはめてゆくのがスマートな産官学連携であるのだという周囲からのプレッシャーに悩まされるようになる。余計なものは見るな、可能性を狭めて考えろという指導を長いこと受けてきた人たちと話が合う訳もない。なかなかにつらい時間ではあった。

その中で、幾つかの活動を介して岐阜の地元の多様な人々に出会い、救われるようになり徐々に立場を作って現在に至るのだが、自分をめぐる状況は本質的には好転しているとは思っていない。ただ、地元の少なからぬ方が応援してくれているのが表にも見えるようになったので、上の方の人も訳は分からぬがよくやっているとして許容してもらっている程度のことと理解している。

なので、今でも無理無理企画を当てはめる類のお役人や学者とは意見が合わぬ。こちらも大分歳を重ねたので我慢強くはなったにせよ、元来の短気に加えて立場として意見を表出せねばいけない場も増えた。ちゃぶ台ひっくり返したいのを堪えて堪えて、理不尽さや怒りを説明してゆく作業の連続である。

ただ、着任初日に言い放った「観察者」という姿は依然として意固地になってでも保っている自分がいる。現在はプロジェクト企画にせよ、状況観察無しには進みようがないし、その方向でいいアウトプットが出つつある。

まちづくりやら産業振興やらイノベーションやらのご近所であれこれやってきたが、結局は基本のアプローチはそこから微動もしていない。そしておそらくこれからもそういうポジションで研究活動をしてゆくんだろうなという希望とも諦念ともつかぬものを抱え込んでいる。

そしてまた観察者の立場で街を歩きたいという猛烈な欲求に襲われている。この春からは、岐阜着任以前くらいのペースで外に出てゆければと思っている。そうですよ、うちの流派は外出て見に行ってなんぼ、街歩いてなんぼなんですから。

0 件のコメント: