世間の事件やその報道を見ていろいろ思ったということも当然あるが、それ以上に自分の周囲で非寛容な態度を取りつづける人々の振る舞いを見ていたことが大きい。それが昨夜のこんなツイートになる。
http://twitter.com/assamtea/status/44321352127217664
「建前撲滅運動」と「寛容革命」は両立するものかどうか考える。
自分らがつらい思いをしてきたがゆえに、自分の下の世代もつらい思いをして当然だ、という高齢の方の思い込みは正直痛々しい限り。いわゆる「無理偏にゲンコツ」ともいうべきものから、この時代に何かが生まれるかどうかは疑わしい。何よりこの萎縮感のある国で、どうやると次の新しいものを創出してゆくのかを考えるのはつらいところもある。
社会全体がシュリンクする時代に、様々な規範が人々の手足を縛り付けてゆくことはできる限り避けたいものであるが、残念ながら変化しないことでの生き残りを賭ける層は、現状のルールが継続する前提で環境を固めたいということも多そうである。その時に、「寛容であること」をどう前面に押し出してゆくことができるのかをあれこれ夢想していたわけであり。
自分の常識的な視界から外れる動きや、理解しがたい異物同士の融合というものを不快に捉えるかそれをあるべきものとして受け止めるか、その違いは大きい。「寛容」というのも楽ではない、我慢比べの部分かもしれない。ただ、変わらないということでの我慢に比べると、「寛容」の辛抱は革新的でもある・・・そうか、だとすると「寛容革命」というくくりになるのかな、という次第。
そしてもう一つ、この話の前提には「寛容~」とともに、世に流布する「建前」の打破の運動が必要と感じている。 多くの出来事が建前化している現状では寛容ということですら形骸化しかねない。そこで建前という幻想を払拭するためにも、この二つが揃うことが望ましいなというのがとりあえずのまとめ。とはいえ思いつきゆえ全然まとまってないけれど。
と思っていたら、作家の高橋源一郎さんのこんなツイートが流れてきたので示しておく。例のカンニング事件に関わる内容。
http://twitter.com/takagengen/status/44441085296119808
「大学」25・「彼は、ほんとうに大学に入りたかったのだ、間違ったやり方ではあったけれど」。この社会が「寛容」を失おうとしているのなら、「大学」は「寛容」を失ってはならない。それは、「大学」が存在している重要な理由の一つではなかったろうか。多分この項はつづく。
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