2011年3月8日火曜日

「寛容革命」という夢想、「建前」という幻想

このところ、自分の中のキーワードに「寛容」というものが浮かんでいた。

世間の事件やその報道を見ていろいろ思ったということも当然あるが、それ以上に自分の周囲で非寛容な態度を取りつづける人々の振る舞いを見ていたことが大きい。それが昨夜のこんなツイートになる。

http://twitter.com/assamtea/status/44321352127217664
「建前撲滅運動」と「寛容革命」は両立するものかどうか考える。

自分らがつらい思いをしてきたがゆえに、自分の下の世代もつらい思いをして当然だ、という高齢の方の思い込みは正直痛々しい限り。いわゆる「無理偏にゲンコツ」ともいうべきものから、この時代に何かが生まれるかどうかは疑わしい。何よりこの萎縮感のある国で、どうやると次の新しいものを創出してゆくのかを考えるのはつらいところもある。

社会全体がシュリンクする時代に、様々な規範が人々の手足を縛り付けてゆくことはできる限り避けたいものであるが、残念ながら変化しないことでの生き残りを賭ける層は、現状のルールが継続する前提で環境を固めたいということも多そうである。その時に、「寛容であること」をどう前面に押し出してゆくことができるのかをあれこれ夢想していたわけであり。

自分の常識的な視界から外れる動きや、理解しがたい異物同士の融合というものを不快に捉えるかそれをあるべきものとして受け止めるか、その違いは大きい。「寛容」というのも楽ではない、我慢比べの部分かもしれない。ただ、変わらないということでの我慢に比べると、「寛容」の辛抱は革新的でもある・・・そうか、だとすると「寛容革命」というくくりになるのかな、という次第。

そしてもう一つ、この話の前提には「寛容~」とともに、世に流布する「建前」の打破の運動が必要と感じている。 多くの出来事が建前化している現状では寛容ということですら形骸化しかねない。そこで建前という幻想を払拭するためにも、この二つが揃うことが望ましいなというのがとりあえずのまとめ。とはいえ思いつきゆえ全然まとまってないけれど。

と思っていたら、作家の高橋源一郎さんのこんなツイートが流れてきたので示しておく。例のカンニング事件に関わる内容。

http://twitter.com/takagengen/status/44441085296119808
「大学」25・「彼は、ほんとうに大学に入りたかったのだ、間違ったやり方ではあったけれど」。この社会が「寛容」を失おうとしているのなら、「大学」は「寛容」を失ってはならない。それは、「大学」が存在している重要な理由の一つではなかったろうか。
多分この項はつづく。

2011年3月6日日曜日

犬山を歩く・・・市民手作りの祭りと城下町の様子と

研究会などでご一緒してきた久世高裕犬山市議からお誘いがあり、犬山市内を歩いてきた。犬山は愛知県北部にある、犬山城で知られた拠点都市の一つ。岐阜側からみると各務原市と木曾川を挟んで双子都市のような位置関係にある、ものづくりも盛んな地域である。


犬山の「あったか鍋と地酒まつり」というのが今回の催し。
犬山駅を西に進み、本町交差点を南北に貫く道が今回の舞台。


久世事務所への議員インターンシップに参加している大学生。
これも経験、ご苦労さんです。



鶏ちゃん焼き、という鶏の味噌風味焼き。200円。
甘味ある炒め物、おいしゅうございました。




関係者が皆で持ち寄って出来ることを始めておいでの催し。
屋台も犬山での職人さんによる手作りと。
常設はひとつのみとのことだが、地域で催しが出来るよう他も準備されたと。
こういう仕掛けがあると、面白いことが出来るもの。


久世高裕犬山市議。
クールに見えて熱く、アクティブな議員さん。ある意味神出鬼没。



今日は通りのあちこちで様々な催しが。
個性的なカラオケの歌声が飛び出してくる一角。



犬山の街中には、古い街並みが多数残る。
これが残しているのか、諸般の事情で結果残ったのか見分けるのは難しい。
ただ、少なからぬ方が犬山の地域の貴重な資源を理解しているのは分かる。


以前は歩いていて少なかったカフェ系の店が幾つか増えていた。
その辺の空気に敏感なところがこの街にはあるのかも知れぬ。
ここの店は前からあったと思うけど(笑)。




途中で地元の方の紹介で犬山商工会議所の日比野会頭さんにご挨拶。
豪快と言ってしまうと単純だが、攻めの姿勢を感じさせる方。
犬山TMOの社長も兼務されているそうだが、街中にはTMOの積極展開。
何となくこの元気な勢いが想像できる出会いでもあった。



そして犬山は裏道がいい。
表側は随分観光地として整備されてきたが、裏の街にはまだまだ見るものがある。
突然に山車の小屋(といってもでかい)が出現したり石畳を楽しんだり。
時間があれば、裏側を徘徊するのもお勧めである。


名鉄犬山駅前まで戻ると犬山祭ののぼりが立っている。
今年の犬山祭は4月2、3日に開催予定。

上記には記さなかったが、いろいろな犬山の地元の方とご挨拶。その中では創意工夫しながら努力する人々とともに、残念ながら一部首を傾げざるをえないお話が出てきたのも事実。地域にはいろいろな立場や声があるのだろうし、その中で若い市議さんが苦労しているのだろうと推察させるものも感じられた。

ともあれ、面白いものものが積み重なる犬山である。いい地域経営に繋げて行って貰えるのだろうという期待を持たせる時間となった。

2011年3月5日土曜日

観察者としての立場

10年近く前、辞令を貰って岐阜に来てすぐの時だが仕事場でスタッフとの大喧嘩をした。

今でも良く覚えている。着任の日、研究分野がばらばらのスタッフの間で雑談をした中で君は何をしたいのかと聞かれ、「自分は岐阜の観察者でありたい」と話した所、その後上司となるロボット系の研究者に酷評され、猛烈なバトルとなった。ロボット系の人には「こいつは何もする気が無い」と理解されたらしく、それから数年は大きな誤解の中で、事実上の監視下に置かれ針のむしろの岐阜生活となった。

都市論やアートの領域を横断してきた自分の出自を考えると、発言自体は何も問題はないしその後十分に研究も仕事も出来たものと思っている。ただ、今となってみれば一部の人には癪に障る言葉だったのだろうと類推している。

地域に何が求められているのか、見て歩いて調べて聞いて考えるプロセスが当たり前として師匠らに叩き込まれていた身には、観察という行為が理解されないのは意外で、かつ身内から後ろから弾が飛んでくる状況には面食らった。

徐々に分かってきたことは、そういう訓練を受けた人というのは稀有なのだということであり。そのうちに役所や大学で偉い人がストーリーをつむぎ出し、それを地域に強引に当てはめてゆくのがスマートな産官学連携であるのだという周囲からのプレッシャーに悩まされるようになる。余計なものは見るな、可能性を狭めて考えろという指導を長いこと受けてきた人たちと話が合う訳もない。なかなかにつらい時間ではあった。

その中で、幾つかの活動を介して岐阜の地元の多様な人々に出会い、救われるようになり徐々に立場を作って現在に至るのだが、自分をめぐる状況は本質的には好転しているとは思っていない。ただ、地元の少なからぬ方が応援してくれているのが表にも見えるようになったので、上の方の人も訳は分からぬがよくやっているとして許容してもらっている程度のことと理解している。

なので、今でも無理無理企画を当てはめる類のお役人や学者とは意見が合わぬ。こちらも大分歳を重ねたので我慢強くはなったにせよ、元来の短気に加えて立場として意見を表出せねばいけない場も増えた。ちゃぶ台ひっくり返したいのを堪えて堪えて、理不尽さや怒りを説明してゆく作業の連続である。

ただ、着任初日に言い放った「観察者」という姿は依然として意固地になってでも保っている自分がいる。現在はプロジェクト企画にせよ、状況観察無しには進みようがないし、その方向でいいアウトプットが出つつある。

まちづくりやら産業振興やらイノベーションやらのご近所であれこれやってきたが、結局は基本のアプローチはそこから微動もしていない。そしておそらくこれからもそういうポジションで研究活動をしてゆくんだろうなという希望とも諦念ともつかぬものを抱え込んでいる。

そしてまた観察者の立場で街を歩きたいという猛烈な欲求に襲われている。この春からは、岐阜着任以前くらいのペースで外に出てゆければと思っている。そうですよ、うちの流派は外出て見に行ってなんぼ、街歩いてなんぼなんですから。

2011年3月1日火曜日

大学入試の試験監督というもの(その2・美大編)

昔の事だが、大学院を出て都内の美術大学の映像学科の助手に着任することになった。1月にその大学から連絡があり、人手が足りぬので、2月から助手予定者として試験監督と、時間が余ったら教務補助のグループで運営に加わってほしいとのこと。知らぬこともある学校ゆえ、研究室の方に都合を付けてそちらに向かうこととなった。

その美大には各学科・研究室に助手と教務補助員が配置されていた。教務補助は他大だと副手などともよばれ雑多な研究室の作業や事務などを行う、大学運営の最前線でもある。初年度は、試験の際は監督業務、手が空いたら教務補助の業務を行うというかなりの激務だった。

入学試験の準備の際には、普段だと使えるアルバイトの学生が使えない部分ばかりである。机やら椅子やらの配置であればいいが、入試に実技がある大学では入試出題の準備での機密保持も考えねばならず、そういう部分で教務補助さんの出番となるわけであり。まあこの辺りは大変面白い部分だが割愛する。

美大とは言え学科試験では早稲田とほぼ一緒。ただその時に、試験監督は美大の教授が行うわけで、ある意味珍道中でもある。こちらも致命的(?)なトラブルは無かったものと思っているしたとえ有っても書けぬ。ただ、これは記してもいいだろうが、美大って実技だけじゃなく筆記の試験がかなり出来る学生も結構受験しにきてるのだなということは分かったのは収穫であった。

そして美大入試のメインイベントは実技試験。

朝、控え室に試験監督の教授や助手が集まり、出題者の先生や試験担当の委員の先生から出題についての説明を受ける。美大の実技試験というのはデッサンや油絵もあるが、自分らで課題を設定して作成するようなものもあるし、持参の画材や道具を使う試験もある。なのでその事前説明をきちんと聞いておかねば運営にも差し支える。油絵日本画から資格伝達デザインや工業デザイン、映像や芸術文化まで学科の分野は様々でもある。

ところが、何十年も入試に関わっている大先生らは、助手を当てにする。「おー君が一緒か、だったら全部任せても大丈夫だな」と説明に聞く耳を持たずマイペースというのは当時では普通のこと。若造からすると、なんでこんな大御所のアーティストに分野外の試験監督任せるものかとも思ってしまうが、それが美大の入試なのだからしょうがない。大先生には適当にお座りいただいてこちらで全て段取りを整えて大先生には「開始!」と「終了!」の掛け声だけお願いするということにしてもらったり。

控え室での出題説明でもよく一悶着あった。説明する側の先生もアーティストである。出題意図や必要な作業を分かりやすく客観的に説明出来る人ばかりではない。すると、作業を試験会場で行うことになる監督の先生らから徐々にイライラの言葉が飛び出す。時には、壇上の先生と試験監督の先生とで口喧嘩めいてしまい控え室が殺伐としていったことも。

とにかく準備を終えて会場に向かうと、モチーフがある試験会場だと、受験生は会場前で鍵が開くのをさらに殺伐とした空気の中で待っている。 事前にバラバラにモチーフを見てしまうと不公平になるからだ。監督が鍵を開けると、部屋の中に皆がなだれ込み、場所決めの抽選である。モチーフをどこからどう見るかはくじ運次第になってくる。

ただそこでまた悲喜交々。自分の合った場所を陣取れればいいが不本意だと受験生はそろりそろりとイーゼルと椅子を動かし始めたり。僅かだと許容範囲だが大胆不敵に移動する学生もおり、そこを見張るのもすでに試験官のお仕事でもある。

試験開始してしまうと、油絵の制作などだと最長6時間。そして何よりカンニングの無い試験でもある。監督側としては開始してしまうとほっとできる・・・と持ったら大間違い。課題への解釈やら、個々の学生さんからの質問やらが結構出てくるのも実技試験。すると廊下に控える教務補助さんを伝令にひとつひとつ本部に確認をして、学生へ返答をすることになる。

美大の場合、何年も浪人してきた多浪生が結構な数受けに来ることがある。そういう受験生と現役の高校生とがひとつの会場で受験する様子は凄い風景である。セーラー服の女子学生がおどおどしつつ制作する横で、周囲を威圧しつつベテランの風合いのヒゲ面の多浪生が悠々とした様子で筆を動かすてのを見るのもいいものではある。 まあどっちも頑張れと。

そして・・・学生さんの処置も役割。音を立てて制作作業する受験生に別な学生が注意したら逆ギレされて試験会場で殴り合いが始まったり、具合が悪いと学生がトイレに行こうとして動けなくなり、教務補助さんが背負った途端に背中で吐かれたりとか、画材を全部忘れてきて売店まで慌てて画材買いに行ったりとか、 いろんな出来事がそこには起こりうる。ストーブが暑いとか換気してくれとかの対応まで、とにかく受験しにきた全ての学生が力を出しきってもらうようにするのが試験監督の仕事。

そして終了後、学生さんの作品を集めてから整理をして、審査のための環境づくりまでをして終了となる。作品をそのまま置いて貰うことも有れば、ある指示に従って並べ直して審査することもある。そこには非常に整然かつ厳正な仕組みが構築されており、美大のシステムってこうなって出来ているのか・・・としみじみ実感した瞬間でもある。

助手の場合は関与はここまで。審査や合格判定は当然ながら教授のお仕事。ただ、ああこうやって受験生が選ばれてゆくのだな・・・という現場を見ることが出来たのは非常にいい経験になっている。受験生や入学してきた学生は受験の技術などの話をよくするが、大学の側ではもう少し違う目で見ているなという印象は助手の時に感じていた。そして、美大の入試についてある先生の「いい学生は必ず合格しているはず」というご発言を記しておく。

私は4年間、計5回の入試業務に携わり契約満了で退任したのだが、上記は10年くらい前の美大でのこと。今もそう大きく変わってはいないだろう。そしてそこを通過してきた受験生が、学生として4月から大学に入ってくる。世間では大学についていろいろ言われてはいるが、結局は毎年この繰り返しである。変わらねばいけないこともあろうが、変わらないこともまた大学を支えている。

大学入試の試験監督というもの(その1)

世間では大学入試についていろいろ騒がしいらしい。非常にタイムリーな問題でもあるので今回の件での詳細は控えるが、その代わり自分がやった入試監督の経験を記しておく。

早稲田大学では学生にもアルバイトで入試監督の補助員の募集がある。今は知らぬ(岐阜駐在でもあり入試業務はない)が、多分同様であろう。何回もの入学試験に金を払ってきてやっと大学生になった者としては、入試業務というのは非常に魅力的な仕事でもある。

90年代頭のその当時は、まず大学事務所へ希望を出して申し込んだら、結果がコンピュータで抽選さて出されてハガキが郵送され結果を知る。当時だと早稲田は政経から人間科学まで9学部あったので最大9回バイトできる可能性があったが、まあ多くて3、4学部というのが普通であった。

朝、指定された時間に控え室に行くと、自分の仕事が割り当てられてゆく。学生だと用紙配布や廊下での誘導係などが振られるのが普通。教授らが受験会場一部屋の責任者で、その指示で答案配ったり会場準備したりするわけである。

時たま変わった役があって、私の頃にはまだ「鐘」担当がいた。試験開始と終了の時に、棒の先にメロン大の鐘がついたものを廊下を駆けながら鳴らすという大役である。ああいうのもやってみたいなぁと思いつつついぞ当たることは無かった。ある年にバイトさんがこの鐘を廊下で落っことしてひと騒動になったというのはまた別の話ではある。

意外にこの入試バイトは大変で、決められた時間までに問題と答案用紙を配り開始するてのは結構なプレッシャーだったりする。定形の作業とは言え、初めて会った先生とバイトさんとで一つの教室を仕切るのは緊張感に満ちている。早稲田の場合は試験時間が一科目60分、長くても90分なので何だかんだといううちに終了となる。逆に廊下での誘導係はまた寒い中じっと座っているだけというのも一種の苦行だが、何もしなくていい気楽さが廊下組の唯一のメリットでもあった。

さて、室内での監督をしていると、妙な動きをしている学生はすぐわかるもの。試験監督は前からだけでなく写真照合の作業もあるので横から見て歩くこともあり、きちんと見ている分には、受験生も手元でそうあれこれ出来るとはちと思えない。私が試験監督補助をしていた頃はまだ携帯電話はそれほど一般的ではなかったが、あの状況だと携帯があったにせよなかなか難しいだろう、きちんと監督された会場である限りは、だが。

試験終了し答案を集めたときに、一番気をつけるのが集め忘れなどないかの確認。ところが100名程度の会場だと、名前の書き忘れやら、受験番号の書き間違いなど結構出てくるので気が抜けない。答案を集めて受験生を室外に出してしまってから気づいてももう遅いので、ここが一番気を遣う部分かも知れない。

答案は控え室に持ち帰り確認を受けて完了。そして全科目が終了すると、アルバイト料の受け取り。当時は現金とっ払いであった。拘束時間にも比例するが安い学部で8000円くらいから、長い時間の学部で1万2000円くらいだった記憶。貧乏学生にはいいお仕事で、その金で帰り道に古本屋に寄って、などというのは今から考えるといい思い出ではある。

ということで大学院を出るまでこのバイトはやっていて随分と助かったのだが、本当に面白い入試監督の経験は助手として勤めた美大でのほうかも知れない。ということでこの続きはまた。