2011年2月10日木曜日

「新しくない公共」とでも称してみる

ツイッター上では今日も市民参加や熟議や教育やら「新しい公共」にまつわる多様な事業が花盛りである。それらを横目に、少々自分の仕事向けの調べ物などしつつふと思う。私がこれまでどうも公共論の中でもあまり「新しい公共」の領域ではなさそうなエリアをずっと横断してきたらしいのだな、と。

公共経済学のゼミを経由し、都市を中心に交通やコモンズや環境・公害問題でトレーニングを受けてきた身としては、親戚の盛業ぶりを見る思いでそれらの活動を受け止めている所もある。「新しい公共」に希望を持ち熱心に関わる人々がいるのは大変頼もしいこと。昨年来の一連の活動により多くの人々がその意味に賛同して加わってきたという点では、「新しい公共」には運動体として公共論がここまで引っ張ってこられたことは賞賛に値する。

これからも社会課題について有効な手段のひとつになるのだろうが、しかし正直、課題について多様に対処できるほどまでは「新しい公共」の諸活動は万能ではないと感じる所はある。合意形成のツールとして優れものとは思うが、特に場づくりの段階を越えてからその先にどうなってゆくのかはよく分からない。誤解を恐れずに言えば、長い沈黙期間を経て政治の試みから火がついたものが、あるところで政治と衝突する段階がくるのかな、というのが今の予感でもある。

自分はそこから少し離れた場所からこの状況を見ている。自虐的に言えば「新しくない公共」とでも称してみると良いのだろうか、公共論全体の中でも少し古く見える領域での問題もまた十分にホットな所はある。公共論の領域は随分広く、現在「新しい」として熱を帯びているのはそのある一部分、ということでもある。

これからもたまには「新しい」ほうにも関わってゆくつもりではあるのだが、自分の役割としては、やや足元はぬるい程度の温まり方ながらも、都市の地べたに這いつくばっていろいろなものを見てゆく作業を続けることしかないのだろうとも悟っているところでもある。

昔の作業をひっくり返していると、たまにはいいこともあるものだ。

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